全日本大学駅伝2005

今や箱根予選会常連の感もある(失礼)日大が優勝した大会が10年以内にあるということに吃驚してしまったので、詳細な結果を見なおしてみることにした.
と、簡単に始めたはずなのに近年稀に見る文章量になってしまった.


オーダー

福井3(6-6)-サイモン2(1-1)-秀島3(2-1)-土橋3(5-1)-武者4(5-1)-吉岡4(2-1)-阿久津2(1-1)-下重4(3-1)

※選手名・学年(区間順位-総合順位)
「2005年第37回全日本大学駅伝対校選手権大会成績速報」を引用し編集
(http://hakonesaijo.web.fc2.com/2005-zen-result.htm)


近年の日大は留学生偏重が年を負うごとに酷くなっているという印象が拭えないが、
振り返ってみるとこの頃は留学生以外のメンバーも力のある選手が揃っている.
そもそもこの結果を見返すにあたっては、まず当時の状況を想起しておく必要があるのであろう.
当時は駒沢順天堂の紫紺時代が終焉を迎え、箱根は78回(2002)から続く駒沢の連覇が続いており、
翌年いよいよ70年代以来の5連覇なるか、という駒沢一強時代が続いていた頃である.
しかし、出雲駅伝は優勝した97,98年(今年はそれ以来の優勝だった)以来ずっと堅守してきた翌年シードの3位以内を逃した、という点では、
その風潮にも少し暗雲が垂れ込めていたのかもしれない(その頃今のように駅伝を眺めていなかった筆者にはわからないのだが).
とはいえ、出雲はスピード勝負であるから、選手層とスタミナも重要になってくる箱根とは少し毛色の違う駅伝である.
そういう意味では、この年の全日本は駒沢の本領を見極める格好の機会だったのだろうか.
なんと全日本に至っては駒沢は97年から2位すら外していないのである.


さて、実際の結果を振り返ってみよう.
1区福井が実質区間賞(※)だった東洋・大西(1年)から18秒の位置につけた.
この区間6位は結果としてシードを取った大学の中で日体大(総合5位)に次ぐものであったことからも分かるように、この年は上位陣総崩れの乱戦から始まったのであった.
駒沢は1区の堺(1年)が区間12位のブレーキで、東洋からは1分遅れた.
2区サイモンはギタウ・ダニエルに隠れるようにフェードアウトした「日大最初の留学生」であったが、力はあった.区間2位の中大・上野に22秒差をつけ、駒沢・村上には1分差をつける.
この時点で日大-駒沢の差は1分45秒になった.
6区が終わったところで、駒沢はこの差を1分差まで詰める.
3区高井(3年)と平野(2年)が区間賞の快走.しかし日大の3区・秀島は2秒しか遅れず、6区・吉岡も14秒遅れたにすぎない.
日大と駒沢の差の縮小は4区・土橋と佐藤(慎悟・4年)で40秒縮まったのが最大の要因であった.
ただ、駒沢の2つの区間賞は日大以外との差を詰めるのには良好に作用し、6区終了時点で駒沢は2位につける.
しかし、駒沢の残りの2区を任された糟谷、藤山の両4年生がぱっとしなかった.
日大・阿久津が7区区間賞、下重が8区を山学のモグス(1年)、中大の池永(4年)に続く区間3位でまとめたのに比べて、
彼らは区間5位、7位という結果に終わり、2人で逆に1分45秒差をつけられてしまった.
日大は冒頭で述べたように下重がゴールテープを切って1991年以来の優勝.
終盤の追い込みが不発に終わった駒沢は、最後の2区間区間2位でまとめた中大の後塵までも拝して3位に終わった.
結果論から言えば、駒沢は2区までにつけられた1分45秒差を最小で1分までにしか詰められず、
その点ではサイモンがつけた1分差は非常に大きな意味があった.
日大はサイモンで得た勢いを持ち続け、それを損ねることなく8区までつないで勝った、ということになるだろうか.
さて、駒沢は出雲で4位、全日本で3位とここ数年で最悪の結果に終わり、5連覇を狙った「本番」箱根に挑むのだが、
順大・今井(3年)に屈しての往路2位、8区の堺で首位逆転を果たす(順大・難波(4年)の失速はあったわけだが)も、
9区10区という最後の2区間でまたしても失速し、まさかの激走で箱根をかっさらった亜細亜大から遠く離された5位に終わり、
箱根5連覇の夢は潰えることになる.
この年の全日本が、駒沢一強時代の終焉を予告することになったということは間違いないだろうが、
それに加えて、この駒沢にとっての敗戦は駒沢という超強豪校の一連のサイクルに一段落をつける再出発―
第85回(2009)における屈辱的な13位へとつながる一つのピースであったと言うこともできるのではないだろうか.
主題が日大だったはずなのにすっかり主題が駒沢に転換してしまったが、箱根の日大は亜細亜、山学につぐ3位という好成績で駅伝シーズンを終えた.
やはり当時の日大は強かったのだ.


現在俗に言われていることは、日大は留学生の相乗効果が上手く発揮されていないということだ.
しかし、当時それが出来ていたというようには思えない.
一時期の山学のように強い日本人の中に強い留学生がいて、それが好成績につながっていたというふうに見える.
日大復活への一つの道は、再びそのように編成するということであろうか.お金はかかるかもしれないが、可能な道だろう.
もう一つの道は留学生を間近で見て、それに食らいついていくランナーを作りだす山梨学院のような路線になるだろう.
果たして、日大は再び駅伝シーズンの主役に踊り出ることができるのだろうか.